石油の歴史

石油の歴史
石油の利用は古く、紀元前4000年頃のメソポタミアで彫刻の素材として、また紀元前2500年頃のエジプトではミイラの防腐剤として天然アスファルトが利用されていました。

わが国では秋田県潟上市豊川の槻木遺跡から出上した縄文土器にアスファルトの付着するものがあり、縄文人はアスファルトを土器のヒビ割れ修理に利用していました。そして、「日本書紀」には668(天智7)年、越の国(現在の新潟県)から燃える水・燃える土が近江大津宮に献上されたとあり、これがわが国最初の石油についての記録です。

天然に滲み出した石油から独特の臭気が漂うため、江戸時代の見聞録には石油を“くそうず”と呼び、草生水・臭生水・草水などと書き表しました。1812年(文化9年) に刊行された「北越奇談」に“越後七ふしぎ”の一つ、火井が記録されています。これは、言うまでもなく天然ガスの炎ですが、この頃にすれば、まことに不思議な出来事だったのでしょう。

 

1940年頃の八橋油田風景

石油の歴史
秋田市にある八橋油田は、1935(昭和10)年久原鉱業(現JX石油開発)の上総4号井の猛噴で発見されたわが国最大級の油田です。江戸古文書に「八橋臭津…にも油あり」と記され、原油の滲出地として知られていましたが、油田誕生までに25年の月日を要しました。1960年代初めまで活発に探鉱開発が進められ、油井が林立し盛況を呈しました。油井の数は千数百坑に及び、2012年(平成24年)3月末までに累計567万キロリットル(約3500万バーレル)の原油と13億立方メートル(約460億立方フィート)の天然ガスを産出しています。

カフジ油田の生産施設(アラビア石油)

石油の歴史
カフジ(Khafji)油田は、サウジアラビアから旧中立地帯にかけて分布する巨大油田、サファニヤ/カフジ油田のうち旧中立地帯沖合にある部分の油田です。本油田は日本企業が海外で開発した最初の海上油田で、1961(昭和36)年から操業を開始しましたが、現在は権益を失い、撤退しています。

我が国の開発歴史

戦前の動き(1945年以前)

日本の石油開発事業は、近代石油産業の発祥(1859(安政6)年、ドレークの石油井掘削)から12年後の1871(明治4年)、長野市善光寺で綱式掘削機を使って石油井を掘ったのが始まりです。近代的石油鉱業として開発が行われたのは、1891(明治24)年に新潟県出雲崎海岸の尼瀬油田の発見とされています。

その後、新鋭掘削機、科学的探鉱開発技術の導入と大資本企業による群小企業の統合などで石油開発企業は近代化され、国内油田の探鉱開発が促進されました。

1920年頃の黄金時代の国内石油生産量は、当時の石油需要の約75%を賄っておりました。内燃機関の発達とともに「石油の一滴は血の一滴」と呼ばれる程、重要な国家戦略物資となりました。

世界の石油産業は、激しい企業淘汰を繰り返し、幾つかの国際石油資本(メジャー)によって油田の探鉱開発から精製・販売まで独占されていました。わが国も北樺太や南方諸国へ石油資源を求めて進出し、油田の開発や復旧にあたりました。

戦後の動き(1945年以降)

戦後、わが国の石油産業は、国内油田の荒廃と海外油田からの撤退で、経営基盤を失いました。そこで政府は「石油資源開発五カ年計画」の策定と国策石油開発会社の設立を行い、石油・天然ガスの探鉱開発体制の整備と育成に力を注ぎました。その結果、新潟・秋田県で油・ガス田が相次いで発見されました。

一方この間は国際的に低廉な石油価格時代であったため、わが国の石油需要は、経済の高度成長に伴って飛躍的に増大しました。そのため、全需要量に占める国産原油比率は急激に減少し、海外油田の開発へと目が向けられました。

わが国の石油開発会社は1960年代のカフジ油田の開発を皮切りに、次第に海外へ進出し始め、成功を収めました。1967(昭和42)年には自主開発原油の確保を計るため、石油開発公団(後の石油公団、現JOGMEC)が設立されました。

1970年初頭からメジャーによる石油の寡占が崩れ、OPEC諸国の支配が強くなり、第一次・第二次石油危機で原油価格が急騰し、世界の経済に打撃を与えました。その後、原油の供給過剰と安い原油価格の環境にありましたが、2000年代に入ると原油価格は高騰し、100ドル/バーレルを超えることもありました。現在は、再び価格が下がりつつ変動しておりますが、今後とも、石油・天然ガスの安定供給を図る必要性は変らないでしょう。

資料(2000年まで)

世界の原油生産量と原油価格の推移

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世界と日本の石油開発の動き

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